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ブログを書く理由

2009年08月10日 19:40

文章を書くのが怖くなった。
それでも、論文や小説の締切は、容赦なく近づいてくる。仕方がないので、すべてギリギリに、半泣きになりながら終わらせた。
ブログは、1ヶ月以上更新しなかった。何を書けばよいのか分からなくなった。僕がブログをつけだしたのは、8年前のことだった。8年目にして、意義が見出せなくなっていたのだった。非常に今更な話なんだけれども。

それでも、僕はまたブログを始めようとしている。何故だろうか。

今までは、日常生活のログを残したり、友達との交換日記としてだったり、ブログをあくまでも「日記」として使ってきた。それは、自分の生きてきた軌跡を残したいからだった。
でも、今の僕は、その必要性を感じない。自分が死んでも、今までのブログは、残っている。そこに、毎日僕が何時に起きて、何を食べて、なんてことが書いてあるとする。それは、実際、僕が生きていた証拠にはなるかもしれない。でも、だから何だ。誰かがそれを読んだとして、「ふうん」としか思われない。読み捨てられるだけだ。それは本当に、自分が生きた軌跡として遺されるべきものだろうか。

人の「生」とは、その行動か?もっと他にあるんじゃないのか?
それを考えたとき、僕は、日常を綴るだけのブログは不要だと思った。もっと、自分の奥底にある、誰にも伝えられない感情だとか、逆に、客観的な思考なんかを書くことのほうが、必要じゃないかと。
その人の考え方や、価値観は、今までの生き方を反映したものなのだから、わざわざ1日1日起こったことを書かなくても、ダイレクトに「生」に近付く。

別に、日常生活を綴ることを悪いと言っているわけではない。どうしても忘れたくないことや、思い出を残しておきたいときもある。でも、惰性で続けるのは如何なものかと思った。

そういうわけで、僕は書きます。
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靖(やす)んじるどころか

2009年08月12日 09:40

8月6日、9日が過ぎた。
例年通り、テレビでは、追悼式が放送されていたが、それよりも、覚醒剤の話題が目立った。むしろ、原爆を話題にすることを忘れているような局ばかりだった。これって、式が形式的なものになりつつある証拠ではないかと、少し思ってしまう。
今はまだ、被爆者、被爆者1世の時代だからまだいい。これが、僕ら世代が中年になって、高齢者になって、その頃には、完全に忘れられてしまうのではないだろうか。

「8月15日は何の日でしょう?」
テレビの街頭インタビューで、答えられない人を見ると、むなしくなる。子供はまあ、大目に見るとしても、いい歳したオッサンやオバサンが「えー?」と言っていると、本気で苛立つ。「えー?」じゃねえよ、あんたら何年、日本で生きてきたんだよ。語尾上げて、分かんないふりしたって、全然かわいくもなんともない。ただのバカにしか見えない。
と、まあ、「歳だけオトナ」達への批判はそれくらいにして。

この時期に、毎年話題になるのが、靖国神社への首相参拝。
小泉は、参拝。安部は、「する」と言っておきながら不参拝。麻生は、始めから「しない」意向を示している。この問題は、みんなそれぞれに違う意見を持っていて、堂々巡りだ。
堂々巡り、ということは、来年も、再来年も、僕らが死ぬまで、きっと毎年続くんだろう、この論議。

僕個人の意見としては、「首相としての靖国参拝には反対」である。

靖国神社が「宗教法人」である限り、首相が公の場にて参拝をすることは「政教分離の原則」から外れているように思う。首相は、日本国の代表なのに、一宗教法人に阿る(おもねる)ようなことをしてもいいのだろうか。
また、A級戦犯が合祀(ごうし)されていることにより、中国の視線は鋭い。「戦争の過ちを反省していない」などと攻撃されるのがオチである。

しかし、「お国のために戦った」彼らと、その遺族を、まるきり無視することもできない(かもしれない)。もしくは、靖国と何らかの癒着(ゆちゃく)があるかもしれない。ならば、「個人としての靖国参拝でいい」のである。
そんなことができたら、こんなことになってない?だったら言うけど。

そもそも、これを問題にすることこそがナンセンスだ。

首相だって、A級戦犯と呼ばれる人たちだって、1人の人間なんだよ。役職とか、名前の前に、個人だってことを、分かってない。
「参拝しろ!」とか「参拝するな!」とか、みんな自分勝手に叫んでるけど、だったら、あんたらが首相やってみろ、ってんだ。
「A級戦犯を参拝するなんてオカシイ」って言ってる人たち、自分がもし彼らの立場だったらどうしてた?戦争止められた?そんなわけないだろ。
結局、自分がその立場になったら、うまくやれるか、って言ったらそうでもない。そんなわけない。「正解が出ない問題」って言うけど、本当にその通りだ。どっちを選んでも、刃は飛んでくる。

だけどまあ、そんなこと言っていたらキリがないし、それをやりぬくのが一応、選ばれた者の責任だとも思うので、政治家には負けないで前を向いて進んでいってもらいたい。(←上から目線/何が言いたい?)

とりあえずさ、政治家をダメ出しするばかりでは、彼らもひねくれるばかりだと思うんだ。
もっと、持ち上げて進めさせる、彼らだってそれなりに考えてやってるんだと思う(やらないやつは、選んじゃいけない)から、それを認めることも大事じゃないのかな。
「誰がやっても同じだから」って言ってるやつは、自分がやってみろ。できないんなら、的確なやつを選べ。んで、彼らを育てていくのが国民の役割じゃないの?

と、選挙権を持たない子供が生意気言いました。早く選挙権ほしい。

読書感想文の書き方

2009年08月14日 19:56

日本の夏休みの宿題、指名率ナンバーワン。泣く子も黙る、読書感想文

なんでも、現代の小中高生は、インターネットから引用するのが主流らしい。
どんなものか興味があったので、「読書感想文 パクリ」で検索してみた。出てくる、出てくる。

図書リストは、当たり障りのないものばかりだ。
「こころ」「走れメロス」「野口英世」・・・・・・それほど難しくない近代文学か、伝記、といったところか。
いくつかのファイルを開いて、読んでみた。驚愕(きょうがく)した。これが、巷(ちまた)で「読書感想文」としてまかり通ってるものなのか。
ほとんどが、「読書体験記」みたいなものだった。いや、それにも及ばない。自分の日常生活に起こったことをダラダラと書き連ね、最初と最後にちょろっと、本のタイトルなんかを差し挟む形式のものだった。

これは、明らかに「読書感想文」ではない。
しかし現実に、これらのサイトを見て、「読書感想文ってこんなのでいいんだ」と勘違いをし、書き写し、提出する子供たちは多いのである。提出された側からすれば、コピペだとすぐにわかるだろう。
教師は、「どうして自分で書かないんだ」と怒る。
しかし、こうなってしまうのには、教師にも責任がある。なぜなら、読書感想文の書き方をしっかり指導する教師がいないからである。それは、今も昔も同じで、彼ら(教師)も、きちんとした指導を受けた記憶がない。だから、子供たちにも教えられない。

「なんでも思ったことを、自由に書いていいんですよ」
よく聞くが、とても悪い指導だ。これを言う教師は、ろくでもない。
「自由に」という言葉は、物事をとても難しくすることを、まともな人間はよく知っている。

・主人公と自分との比較
・本を読んで起こった、自分の心境変化


この2点をおさえれば、読書感想文は誰でも書ける。
読書感想文に、感想は必要ない。必要なのは、内省(ないせい)である。これを勘違いすると、感想文は書けない。

「誰でも書ける」と書いたが、感想文向きな本と、不向きな本がある。本選びは重要だ。
感想文向き、というと、戦争もの、伝記、近代文学・・・を思い浮かべる人が多いと思うが、別にそれに限ることはない。逆に、戦争ものを選んでしまうと、書けることが1パターンすぎて、難しいかもしれない。そもそも、現代の若者は、自分と関係が薄い出来事なので、内省もしにくい。
本選びで重要なのは、「どれだけ自分が入り込めるか(興味をもてるか)」だ。自分と共通点のある主人公を題材にした作品を選んだり、ドラマや映画で知っている作品を選ぶのもいい。

逆に、不向きなものとしては、エンターテイメント性が高い作品。ホラー小説や、推理小説は、書きにくい。ある程度の分析(ぶんせき)能力を持ち合わせていれば、書けないことはないが、そんな人間は、感想文に悩むことはない。

さらに、評価される感想文を書くには、「個性」と「受け」が大事になってくる。
他人とは違う視点、自分だけの経験を盛り込むことで、文章に深みが出る。しかし、それが強すぎると、かえって受け入れられにくくなる。何しろ、それを読むのは、頭が固い教師陣だ。いくら、刺激的な内容であっても、非人道的なもの、反社会的なものは、あっさり捨てられる。(まれに拾われることもあるが。)

以上のことを意識すれば、とりあえず、普通に提出できる文章ぐらいは作れるはずだ。
がんばれ、小中高生。いや、教師がんばれ。
将来、小学校教師になりたいと言っている女子高生が、僕に読書感想文を書かせている現実。日本の未来が不安です。
そして、感想文パクリサイトの管理人。もう少しまともな感想文を書いてやってくれ。それともあんた、本当は感想文苦手なの?

女系家族

2009年08月16日 23:31

カメの卵

飼い始めて8年目になる、亀次郎産卵した。

見つけたのは妹だった。(=妹、=睦)
「ねえ、なんか水すっごく濁ってるんだけど」
「下痢か?吐いたのか?」
「白いんだけど。見てみてよ」
「・・・・・・(こりゃ自慰か)」

「ねえねえ、なんか殻みたいなんがあるんだけど」
「ほんとだ。誰か卵落としたんじゃない?」
「にしては小さいけど」
「うずら卵だよ、きっと」

役の立たない睦さんである。
と、いうか、産卵なんてこれっぽっちも頭になかったのだ。だって、亀次郎だぜ?次郎、って言っちゃあ、男だよ。(我が家に太郎はいません)

「もしかして、産んだんじゃない?」
「雄でも産むのか!」
「だって、この子、性別わかんなかったじゃん」
「・・・・・・(何であんた、「次郎」ってつけたよ)」
「雌だったんだ、この子」
「でも待て、なんで雄がいないのに産んだんだ!(想像妊娠か)」

ヤフってみたら、無精卵らしい。ちなみに、僕らが普段食べている鶏卵も、無精卵。
水の中で産むと、カメが間違って踏んで、ぐしゃることが多いそうだ。お・・・お前、自分の卵踏んでどうすんだよ!そ・・・そういえば、こないだ、自分のう○こ食べてた・・・な・・・

とりあえず、卵割れてた。で、中身がどろどろに溶けてて、生臭かった。

「それにしても、雌だったとはな・・・・・・」
「じゃあ、亀子だね」
「いや、いまさら名前変えるのやめようぜ」
「じゃあ、次郎美は?」
「いいな、ジロミにしよう、ジロ美!」

そこに母登場。(=母、=睦)

「亀次郎、女の子だったんだねえ」
「いや、ジロ美なんだ」
「そういえば8年もいたんだねえ、亀次郎」
「いや、だからジロ美だって」
「ここは女しか育たないのよ、きっと。ねー、亀次郎」
「いや、だからね、奥さん・・・・・・」
「わたし、奥さんじゃないわよ!(←シングルマザー)」
「アア、ハイ、スミマセン・・・・・・」

というわけで、名前は亀次郎のまま。8年も呼んできたからね、そうそう変えられない。

てっきり、亀次郎のことを雄だと思っていた睦さんは、過去に、彼女を使って卑猥な妄想を繰り広げたことを思い出した。申し訳ない。本当にごめん。
でも、着替え中に、首を伸ばしてガン見してくるのは事実。

うちの家族は、曾祖母、祖母、母、睦、妹 で構成されている。
そのうえ、ペットまで雌だとは・・・・・・
女系ってこわい。

やんちゃバイリンガルズ

2009年08月18日 21:14

せっかくの夏休みだが、僕の数少ない友達は皆、バイトで忙しいらしい。
「今のうちに稼いでおかないと・・・・・・」と言う彼らを見ると、『蟻とキリギリス』のように、僕はいつか凍え死んでしまうのかもしれない、と不安になってくる。しかし、財源はいくつか確保してあるし、物欲もめっきり減ってしまっているので、きっと大丈夫だろう。

車校(標準語では、教習所?)に通うのも、来年と決めているので、今夏は暇で暇で仕方がない。家事をしながら韓ドラを見て、冷蔵庫の中のアルコールを摂取し、パソコンに向かっていると半日が過ぎる。

夏休みが怠惰なものになるだろうことは、事前から予測がついていたので、僕は、ひっそりと手を打っていた。ボランティアに手を出したのだ。
ボランティア、といっても、町の清掃活動などではなく、外国人の小中学生に日本語を教えるものだ。

事前に何度か、見学と研修があり、今日は、自分が教える最初の日だった。
僕と、Tさん(40代の主婦)が担当するのは、小学4年生の、ブラジル人男子3人だった。見た目からして、やんちゃだったが、中身も相当だった。

「今日から、新しく君たちを教えることになりましたTです。よろしくね」
「あんた誰?」
「Tです。新しい先生です」
「あんた誰?」
「Tです、T」
「あんた誰?」
の繰り返し。うんざりしていないところが、Tさんのすごいところだ。

しばらくして、彼らの興味が僕に移った。
「せんせー、前髪で目隠れてるよ」
「こらっ、おしゃれだよおしゃれ」
「えー、なんかゲゲゲの鬼太郎みたーい」
「こら、先生にそういうこと言っちゃだめでしょ」
「あー、いいですよ、鬼太郎って言われますし」
「じゃあ鬼太郎ってよんでやるー」
「っていうか、鬼太郎知ってるんだ?」
「鬼太郎なんてー、ジョーシキだしいー」
「じゃあ、誰がすき?」
「敵ー!だって、鬼太郎すぐやっつけちゃうから嫌いー」
それからというもの、鬼太郎、鬼太郎、ってうるさい。

とりあえず、ここに書いた会話でわかると思うけど、みんな日本語が上手。遊戯王のカードゲームをしていたり、デスノートを読んでいたり、日本語を教える必要はないんじゃないかと思うくらい。

彼らは、ブラジル人の両親をもちながら、日本で生まれている。正真正銘のバイリンガルであり、日本語とポルトガル語がベラベラなのは、当たり前、と思うかもしれない。
でも、彼らは、日本語の読み書きがうまくできない。家庭では日本語を全く使わないし、家庭内での教育もなされてこなかった(両親は片言状態なので、子供に教えられるわけがない)ので、どうしても日本語教育が遅れる。結果として、学業にも支障をきたす。それをできるだけカバーしてやるのが、トワイライトであったり、ボランティアだったりするわけだ。

僕は昔から、帰国子女だとか、バイリンガルという言葉に憧れを抱いてきた。どちらの言葉も母国語として話せるのは、すごいことだし、羨ましいと感じていた。しかし、本当にそうだろうか。彼らに触れたとき、バイリンガルというのは、かなり大変なことだと知った。
家庭内と、外で、使用する言語が違う。しかも、家庭内で使用しない言語を、標準として勉強しなければならない。時には、言葉が分からないことでいじめを受けることもある。子供が受けるストレスは、相当なものだ。しかもそれは、長い間つきまとうだろう。

でもやっぱり、授業の合間に、ポルトガル語で友達としゃべるのを見ると、こうやって堂々と内緒話ができるのはいいよなあ、と思ってしまう。
「何話してるの?」ときいても、「秘密ー」と言われるばかりである。もしかしたら、僕の悪口かも知れないなあ。


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